今般、このような記事を見ました。
「「正直逮捕してもらいたかった」池袋暴走事故の批判に苦しむ加害者家族」
(LIVEDOORNEWS 2020年10月9日 6時0分)
池袋事故、大変痛ましい事故で、現場前も何度かとおりましたが、心が痛む事故です。事故や事件というのはいつも取り返しがつかないもので、ご遺族の心中は察するに余りあるところです。
 
これに対し、この記事では、加害者家族の複雑な心中がクローズアップされています。
この加害者家族の気持ちは気持ちで理解できます。ただそれは、「逮捕=ペナルティ、禊の儀式」という前提に立脚するからです。家族といえども加害者本人とは別人格だから一緒くたにされるべきではないと思います。
 
逮捕というのが一つのペナルティ、禊の儀式のようになってしまっている実情。本来の目的と実情が乖離してしまっている。これは完全に報道の責任です。報道機関は逮捕の意義について今一度きちんと勉強するべきだと思います。
 
自分の弁護士としての実体験としても、弁護人としてベストな活動をして不起訴・あるいは準抗告等による身体解放をしたらご家族に迷惑がられたことはあります。実際、家族にとってはご迷惑だったのかもしれません。
こういうとき、「何のために、この弁護活動やってるのだろう?」と、疑問に思うことがあります。弁護士の多くが通る道じゃないかなと思います。
 
ただ、私達弁護士の仕事って、目の前の人の弁護ももちろんお仕事なんですけど、
 
「そこでおもねたら「失うもの」がある、それを護ること」
 
もあると思います。
では、その「失うもの」って何か?
 
それは、「適正手続の護持」だと思います。
弁護士法1条で私たちが護ることを養成されている「社会正義」というものに、これが含まれていると理解しています。
 
「適正手続」を失ったらどうなるか?
それは、
・捜査機関の恣意を許す
ことを意味します。
 
適正手続が大事なのは、これが、裁判手続がテキトーにされていた時代の誤審・人権侵害の反省から、これを可及的に減少させるための人類の知恵として培われたものだからです。
あえて極端な比喩をしますが、昔の裁判って、腕に焼きゴテ当てて、やけどしたら有罪!とかそんなのをみたことありますが、テキトーすぎる方法であると誰もが思うところでしょう。そんな方法で裁かれたいですか?
本質的にそのレベルに戻りかねないってことです。
 
これに反して、恣意を許せば、「テキトーすぎる」時代に逆戻りします。そうなると、どうなるか、いうまでもありませんよね?
人権侵害とか、言うまでもないです。
 
一つ「焼きゴテ裁判」を認めれば、なし崩し的にそうなるものです。なぜならば「ここからは焼きゴテ裁判、ここからは普通の厳格な手続」というのを明確に峻別する決まりはどこにもなく、結局「世論」などというあいまいなものに委ねることになりかねないからです。そこのスイッチを「世論」などというあいまいなものにすれば、もはやそれは焼きゴテ裁判です。
 
したがって、死刑相当事案で、かつ認め事件であっても、適正手続は絶対に守られなければなりません。
 
刑事弁護は、本当に「誰のためにこれやってんだろう」と思うことがありますが、そのときは「適正手続を護るため」であり、そしてそれは、最終的には、人権侵害の防止ということに繋がります。
だから、弁護人は、恣意的にやってないかをチェックする意味で、適正手続については厳しく目を光らせます(例えば、逮捕勾留の日数にミスがないかも確認します。ごく稀にあるので)。
 
だから、その場の雰囲気や世論、民意といったあいまいなものにおもねることは、できないし、それをしたら、「テキトーすぎる」焼きゴテ時代に戻ると考えます。
被害者及びご遺族のお気持ちの問題には、当然ながら配慮が必要です(自分も、人が亡くなっている・重篤な被害にあっている事件に関与するときには、その点について留意しています)。
他方で、適正手続というものがある、ということについては、これとは別に、また両立する問題として存在する、ということも、報道は配慮するべきだと思います。センセーショナルな事件報道にはそうした配慮が常に欠如していると率直に思います。
報道の役割には、権力の監視というものがあるのではないでしょうか。世論を煽るだけならそれはもはや報道ではなくゴシップと言わざるを得ません。そしてそういう「煽り」が、必ずしも被害者及びご遺族の立場に立ってるとも思えません。
 
以上が、この事件の公判報道を見て、率直に感じたことです。
というわけで今日も一日がんばります!